第19代主将 吉本渉

広大ヨット部75周年記念誌に寄せて。

1967年4月。いろんなクラブの勧誘オリエンテーション現場に輝くフィンの新艇/真紅のデッキ・純白のハル・はためくセールを見つけて感激、その場で入部したけど。
いいぞいいぞとおだてられ広大ヨットに入ったが、、。
この歌そのままに20数名の新人は宇品艇庫に集まって、来る日も来る日も艇運びと突堤の守人。
ある日みんなで結託して練習日をサボタージュしたら多少は改善されたものの、夏の包ヶ浦合宿の昼休みに乗せてもらえる機会が訪れるまでは週日の早朝練習で乗れる程度に限られていた。

夏合宿の食当は60人超の部員食作り。食器もお椀も数足らず、先輩が食べ終わるのを待って丼受け取り食事にありついた。
大鍋2つでご飯と味噌汁かカレーなどがメニュー。燃料は流れ着いた流木や牡蠣筏の竹などを叩き割って燃やした。
一番先輩から叱られたのはホッチン飯。これに比べればベチャ飯や焦げ飯はまだマシだった。

そんなある日映画のロケで俳優の小林桂樹さんと八千草薫さんの一行が包ヶ浦を訪れた。
八千草薫さんが浴衣姿にパラソル差して小舟に座り、突堤のすぐ沖を通りかかるシーン。ホンマに綺麗だった。
小林桂樹さんが汗拭き拭き合宿所に来て、”水を一杯”と言われたけど冷蔵庫もグラスもない処。
仕方なくこんなので済みませんがと断って、洗った丼に水道水入れて差し出したら”いやあ有難う”と言いながら
一気に飲み干して、また汗拭き拭きロケ現場に戻って行きました。お腹大丈夫だったのかなあ、、。

夏合宿打ち上げコンパではセコハンの個別監視下、新人は全員倒れるまで安物焼酎を飲まされた。(最初だけ清酒)
翌日の宇品回航は二日酔いの頭痛と嘔吐で死ぬ思いだった。
今だと社会問題だが当時はそんなもんかと思われた。

12月、新人だけのしぶき杯レースでは上横下までトップだったのがセンターボード下ろし忘れてあえなくゲチョ。
陸では諸先輩が大笑いしながら楽しんどったそうな。
3月の包ヶ浦春合宿は厳しかった。安物の破れたカッパ上下一枚羽織っての強風下練習。
すぐにズブ濡れて寒いことこの上なし。数年後のウエットスーツは天国に思えた。今はドライスーツか?
若さゆえのエネルギー、合宿飯3食だけでは腹が減ってしょうがない。
海辺で落ち牡蠣集めて松葉蒸し、これが忘れられない。秋合宿のアケビも腹の足し。
そういえばいつかの春合宿打上げ日に皆で大量のアサリ堀り、キャンプファイアの大鍋で茹でてしこたま平らげたのを思い出した。

セコハンになったら乗艇機会が増えた。それまでに学園紛争で多くの新人が退部したこともあったけど、、。
中四国新人戦では激しい潮流のためにマークタッチしてあえなく失格した苦い思い出がある。(確か松山)
それでも結果は優勝。同僚のお陰でなんとか格好がついた。
風と波との遊びが楽しくて面白くてのめり込んだ。

1969年。3年生はA級デインギー新谷君、スナイプは小生の各一名、女子ヨット部に吉岡八重さんの合計3人になっていた。
全日本インカレは西宮YH。現地合宿していた7月20日に人類初の月面着陸を何処かの店の白黒TVで観た。
同年8月には広大本館に機動隊が突入して一部炎上、これもどこかの合宿所の白黒TVで”広大が燃えとるでえ”との声に驚いたのを思い出す。
この全日本インカレはスナイプ6位入賞。かなり以前の3位入賞以来の快挙だったが、最終レース前には優勝旗に手が届く位置にいただけに残念だった。。
当時は今と違ってセールのみ持参、艇は主管する地区の大学がかき集めてA/B/Cース組合せ配艇していた。
前年主催したピンキーとキラーズ広島公演での収益で購入した新セールで走った結果とも言える。
翌年女子部の吉岡さんが国体優勝したことも書き添えておきたい。
ともかくこの年から1971年常滑インカレスナイプ優勝を経て10数年間、広大は全国大学のトップレベルの力があったと思う。
あれからもう50数年。ヨットに乗るのが好きで好きでたまらなかった時代の思い出として。

第19代主将 吉本渉