第9代 皆川多郎(2)

昭和36年入学工学部工業経営学科の皆川です。
入学1年の時には皆実町分校で平凡な1年生の生活を送っていましたが2年生になり千田町の工学部と皆実町との掛け持ちとなりました。千田町に授業で行った時に当時は多くの工業経営のヨットブ員がいて工学部の構内で合宿の整備をしていました。それに連れ込まれて同年の夏合宿、包が浦に参加することになりました。以降、宇品艇庫の宿泊、ヨット學校等を経て3年の時に広島湾で全日本個人選手権大会が開催されてその時の出場したレース艇を3艇とスナイプを1艇購入することになり部に大きな負債がのしかかりました。この時に驚いたのはワン陳さんは金の目当てもなく“買う”と決断をした所はすごい人だと思いました。
当時は春夏冬と定期的にダンスパーチィを開催してクラブの資金を捻出していましたがこれでは4艇の支払いには時間がかかると言う事で当時東京在住の山本弘樹先輩とタイアップしてペギー葉山を招請することになりました。当時計画を進めている時にトルコの歌がヒットして広島で興行を開催した時には2ステージ満員生協でした。翌日は岩国の帝人で興行をして4艇の負債を総て清算することが出来ました。学生時代には私の義兄(大野輝夫)には大変お世話になりました。
大學卒業後、就職担当教授の推薦を振り切って東京の商社に就職してその取引先の企業に研修生として派遣されて以降現地の企業のお世話でグリーンカードを取得して10年間仕事をして32才になって広島に帰国しました。そこからがしぶき会の1年生でした。
以降、渡辺文人さんの近くに住んでいたこともあり多くの指示が飛んでまいりました。まずはクルーザーのクラブ結成のお手伝いで各人から80万えんを集めて桑本さんがケンwッドカップで使用した高井理の40フィートの艇を2.000千萬円にて購入して“クラブスピリットオブヒロシマ”と命名して広島湾でのレースのみならず各地のレースに参加してNTT釜山レースにも3度出場しました。
しぶき会の会員組織も当時は段正原君が総会の会費を集めていましたがそれ以外の組織としての活動はあまり見当たりませんでした。当時開催されたアジア大会で瀬尾さんからマックのパソコンを借りて川野君にしぶき会データベースのソフトを作成してもらいしぶき会の名簿住所録を整備して年会費、イアンカレ援助金の支払い状況を明確にして60才でレッドハット、70才でゴルドハットの仕組みを作りました。この帽子は呉の高田帽子で作った商品で海上自衛隊が使用しえいる商品と同じ商品でした。

といった所でこの仕事を大久保君にお願いすることになりまし。
                    皆川多郎