第12代 山岡重厚
「面白き時代」
日本中が戦後10~15年、次世代へダッシュし始めた時代、所得倍増やら、ケネディー等、閉塞感とは無縁の雲間からスポットライトで陽が差すような世代、それが1960年代初頭、死語となった国立一期校で、それなりの能力の自負もあった。受験勉強から解放され、海遊びでもするかと軽い気持ちで入部した連中ばかり。
当初、初夏までは、ひねもすのたりのたりで、なんとなくセーリングしていたが、夏合宿頃から封建的な上下関係のもと、しごきを受け、洗脳され、いつの間にか浜乞食。ヨット部創立10年ぐらいで、最初にレールを引いた先輩の苦労も知らず、当然のごとく、艇庫があり、スナイプ、ディンギーを乗り回した。
当時のキャプテン、昭和33年入学の柚木:地方区から全国区への機運、目標設定した時代、当時から現在まで数十年、常に現役からOBまでを導いたリーダー。ヨット部の顔と云えば、ワンチンと柚木親分のみ。
昭和34年入学の安藤:インカレ本大会主管。決勝で同志社と競り合う。体育会設立の足掛かり、あと一歩。卒業後は、山口県ヨット協会設立。
昭和35年入学の山岡:インカレ第3位。雪村いずみショー(新艇3艇購入)。女子ヨット部創部。「しぶき」創刊。
昭和36年入学の藤井:圧倒的な強さで、中国地区トップ。そのリーダーシップで、インカレ本大会奮戦。彼のセーリング技術は、当時日本のトップクラス。山根君を中心リーダーとして、体育会設立。
そして、ワンチン(監督)。勉強はさておいて、酒、ばくち、女性にも敏感な年頃の学生らをまとめ、上記の如き難題を次々強制してやりきる迄手綱を緩めず、朝夕呼びつけては、説教。坊主で先生とくれば、説教、𠮟責はお手のもの。そのくせ、本人は、酒も女もやりたい放題。「ワシャー、オ〇〇チョ名人」とのたもうた。反感も憎しみも覚えたが、その熱情エゴにいつの間にか心を惹かれ、情が通い、好きになるから不思議だ。
反面、二代目の山本監督は、インカレ第3位当時お世話になった。人格者で懐も深く、我々の好きなようにさせてくれた。
当時、地方の国立大学として、関東関西の伝統校とそこそこ争うことができたのは、環境と時代の恩恵があったと思う。以下はその理由。
・ほとんどの学生が入学して初めてセーリングを経験するため、スタートは横一列。
・インカレ本大会では、自艇ではなく、チャーター艇で、主管校が性能別に準備し振り分けるので、艇差が少なかった。。
・大学本部と練習海面が比較的近く、練習の合間に授業を受けることが可能。それも、いつの間にか面倒になり、ヨット一本に…。
・部員が各学年10人強。とりわけ38年入学の新人は50人から60人。これだけいれば、なんとかなる。また、インカレの主管をしたおかげで、各水域の大学と定期戦が可能であった。相手校にはこれらの好条件はなかった。
今の学生たちには、授業も厳しく、部員も少なく、海面も遠く、練習相手に恵まれた他水域の相手と自艇で戦うという困難がある。現役のみなさん、よくやっていると思う。ヨット部の存続自体が危ぶまれる時節に、立派に持ちこたえた現役とOB指導者の熱意に敬服する。
当面するレース勝利への戦術や、中長期の戦略、経営的感覚、手腕、人材活用、OBの信頼を得るための求心力等々、容易なことではないだろう。柚木さんのおかげでOBの寄付もある程度期待できるが、いつまで続けられるか。恒常的に継続できるしくみができるとよいと思う。
ヨット部で過ごした数年間が、どれほど人格形成に影響したかわからない。ヨットに限らず、スポーツが個人の人格や社会生活に関わる点でも人それぞれで、理屈や蘊蓄の域を出ない。ただ、面白いことに、大切なのは仲間である。
連中について申し添えると、柚木さんや佐藤が授業に出るのは見たことがない。柚木さんは“オームの法則”も知らずに卒業したと聞いたことがある。それでも、この連中は大企業の偉いさん。大久保は、酒と女で学業とは別世界。青木は8年かけて卒業したが、三重県の一流進学校の校長とやら(ウソー⁈)。かく言う私も5年余り遊びが好きでなく、すこし勉強らしきものをやった。中川、村上は、国立大学の名誉教授。
チャーチル、アイゼンハワー、山本五十六、等々、みな成績は中の下。現役の皆さん、心配しなくてよい。
昭和35年入学
山岡 重厚